宮沢賢治という深淵

お久しぶりの更新となりました。web上での更新がないということは、リアル上での考え事は色々ダイナミックに変わっている時期..という風に認識いただければ幸いでございます。

今回は、『宮沢賢治という深淵』ということでお送りします。

やはり、すごい人はあまりにもすごい、ということでその凄さは色褪せることありません。書というのも、本当の書には命が宿っていて、仮に著者がこの世にはいなかったとしてもその書にやどった生命からリアルタイムにいろいろなことを感じることができるものだと思います。

ある本に、「本を読むとは、その著者の瞑想を、その著者以上に瞑想することだ」と書いてありました。

宮沢賢治の本をあまり知っているというわけではないのですが、『春と修羅』そのまえがきが何度読んでもあまりにも異質な光を放っている。。ある種の心象風景のリアリティを表現しているように感じられます。ファンタジー(空想)というよりも、リアリティ(実在)を語っているような気がします。あるいは、ファンタジーこそ実在なるべしということかもしれません。(スウェデンボルグや出口王仁三郎にもある種近いのかもしれません)

『春と修羅』というと映画「シン ゴジラ」の冒頭で出てきたりもしました。また、個人的には新海誠監督の映画「雲のむこう、約束の場所」の中で「永訣の朝」の朗読シーンがあったのがとても印象に残っています。

さて、問題の序文をまずは全文引用させていただきます。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

     大正十三年一月廿日

宮沢賢治
 
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html よりコピペさせていただきました)
 
いかがでしょうか。私は、最初の「わたくしという現象は仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です」という部分からしてノックアウトされています(笑)
 
いかにも「場の量子論」チックです。
 
有機交流電燈が「せわしく明滅する」というのは、「素粒子(ある種の対称性を持ったエネルギー)」が「わたくし(=場)」を通過する、という描像に近いですね。
 
現象の全ては波で記述することが原理的には可能ですが、例えばスタジアムなどで「ウェーブ」をやりますが、あれは、波(=エネルギー)は移動していても、人間はその場で立ったり座ったりしているだけで、動いているわけではありませんね。そのようなイメージです。
 
また「人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ」というのも、ヤヴァい表現ですね。
 
銀河と修羅はまだいいにしても、ウニかよ・・・!と。
 
宇宙塵(ウチュウジン)ってなんだよ・・・!と。
 
これはいかにも『動態』系の思考であって、視座を柔軟に(柔軟すぎる)もてば、それらは『存在として』等価であることを言っているような気がします。
 
全て『存在』は呼吸するのであって、それを『宇宙塵』と云っている。
 
まあこれ以上だらだらと解釈を連ねるのも控えさせて頂きますが、
 
宮沢賢治自身が「第四次延長」と云っているように、「四次元」(あるいは「五次元時空」)的なリアリティーの心象世界をスケッチしている文章のような気がします。
 
これについては、努力してその世界そのものに浸ってみるというプロセスがどうしても必要な気がします。いかに「高次元」と言ってみたところで、自分自身がそれを「外から眺める観察者」に甘んじるのであれば、「我思う故にわれ有り」の延長から脱することは出来ないのでしょう。
 
よく我々は、無自覚に「三次元世界」の中にある「物質」をイメージしますが、よく考えてみると、
 
「現象が三次元的な自由度で記述できる」
という言明(ステートメント)と、
 
「この世界は三次元である」
という言明の間には、何ら自明な相関があるわけではないのです。
 
 
現象が三次元自由度で記述できるということから短絡的にこの世界は三次元であると思い込んで、「世界を三次元に閉じ込めてしまう」のを三次定限(さんじていげん、さんじっていげん)というわけです。
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